寺報アーカイブズ2007年1月〜2011年12月

 2011年12月 如来大悲の恩をしり
   称名念仏はげむべし
      親鸞聖人「正像末和讃」
     2012法語カレンダーより 
 今年も年の瀬を迎えいつものように過ぎていきます。3月にあれほどの災害が起こり、多くの命が失われ、今も苦しんでいます。先日私は福島へ行ってきました。今も放射線量が高く、避難しようとする人が跡を絶たないとのことでした。わたしのできることは今も多くの人たちが苦しんでいることを語っていくことだと確信しました。
 阿弥陀如来は私達に安心を与えてくれます。こんな私をお浄土の世界に必ず連れて行ってくださるからです。報恩感謝のお念仏を。       南無阿弥陀仏 
 2011年10月  雑行を棄てて 本願に帰す
  親鸞聖人 『教行信証』より
  親鸞聖人は「しかるに愚禿釋の鸞、建仁辛酉の暦(1201年)、雑行を棄てて本願に帰す。」と書かれました。聖人が自らの生い立ちを語っているところなのですが、29歳の時強い決意で,法然上人の教えに帰依されたことがわかります。雑行(ぞうぎょう)とは、お念仏以外のことです。聖人は法然上人の教えに導かれ、阿弥陀如来の本願こそ自らの生きる道と決められたのでした。それから800年がたちました。阿弥陀如来が必ず私達を極楽浄土に往生させてくださるという本願は、世界中に広がっています。そしてわたしにも。親鸞聖人法然上人のみ跡をしたい、お念仏申していきたいと思います。  南無阿弥陀仏
 2011年 9月  見えないところで ひとつながりに
   つながりあっている「いのち」
東井義雄 ほのぼのカレンダーより
  私は今年の震災で気がついたことがあります。あの時食料や工業資材が不足しました。日本中そして世界まで影響が出ました。みんなつながっています。いま東京には各地から避難されたかたがみえています。善永寺にも。「残された私に生きていく意義があるのだろうか」と悩まれていました。私は「私達はみんなつながっています。あなたが生きていたことを喜んでくれた方がいるでしょう。そこにあなたが生きていく意義があるのです。」と答えました。東井先生の詩のように私達はみんなつながって生きています。一人じゃありません。そして阿弥陀様も一緒です。  南無阿弥陀仏
 2011年 7月   うまれかわり 死にかわり      永遠の過去のいのちを受け継いで  いま自分の番を生きている     それがあなたのいのちです     それがわたしのいのちです              相田みつを  相田みつをさんの「自分の番」という詩です。いまこの文を読んでいる人はまさに「自分の番」を生きているのです。そしてそれは人にとどまらず、道路の片隅に咲くタンポポやチョウチョウも自分の番を生きているのです。そんな「いのち」のいわれを思い、自分のいのちを再確認するのがお盆の時期です。「いのち」に感謝しお仏壇で、お墓で、そして本堂でお参りいたしましょう。        南無阿弥陀仏
 2011年 6月  他力というは 如来の本願力なり
「法語カレンダー」より
  「他力本願ではいけない、自分の力で成し遂げなければ」という人がいます。でもそれはまだ自分の力が未知数の時です。いくらがんばっても成し遂げられないこともあります。「他力」とは、私達は「阿弥陀如来の本願のお力」のことを言います。どうしても自分で煩悩を取り払うことのできない愚かな私を、阿弥陀如来は必ず救ってあげたいと願われ、それが成就して如来となられました。ご縁によって私達はつながっています。どんな苦しいときでもつながって、如来に生かされている私達なのです。    合 掌
 2011年5月  闇に迷うわれひとの
  生くる道は開けたり
無漏の燈 はるけくも
 かかげんとて 生れましぬ
たたえまつれ今日の日を
  祝えまつれ今日の日を
  鈴木行三作詞「宗祖降誕会」より
 5月21日は親鸞聖人のお誕生日です。聖人は私達に阿弥陀如来が必ず救ってくださることを示してくださいました。それからもう800年もたっています。手を合わせお念仏を唱えつつ、感謝の気持ちをもちましょう。21日は築地本願寺で宗祖降誕会法要があります。
                南無阿弥陀仏 
 2011年 4月  世の中は 地獄の上の 花見哉
小林一茶
  東日本大震災、被災された方にはお見舞い申し上げます。皆様にも大変ご心配いただきありがとうございました。善永寺では、庭の石灯籠一基倒壊、それにより池のポンプのパイプ破損。墓地内、古石塔一基倒壊、石造り五重塔一基倒壊、墓地外柵1カ所損傷。また本堂内事務所内などの仏具や書類の転倒などがありましたが、大きな被害はありませんでした。 
 しかしテレビや新聞で被害の状況に知るにつけ、大変心苦しい毎日です。私ももしかしたらあの津波にのみ込まれていたのかも,と思うたび「いのち」の不思議に気づかせていただきます。そんなはかない私達だからこそ阿弥陀如来のお力にすがるしかないのです。
 今年もまた桜の花が咲き始めました。桜の花のような私達なのです。阿弥陀様に見守られている私に気づき、如来の袖にすがっていく私達なのです。  合掌
2011年 3月     なむあみだ
     おらがほまちの
        菜が咲いた
          小林一茶
 「ほまち」とは「へそくり」の意味だそうです。一茶の小さな畑に菜の花が咲いたのでしょう。ありがたく感謝のお念仏。仏教では自然に感謝します。それは自然のなかのすべてのものに、生き物に植物に石に山に、私達と一緒に生きている「いのち」を感じ、「みほとけ」に生かされている私に気づかされているからです。「一切衆生、悉有仏性」(すべてのものに仏性がある)仏性とはほとけさまであり、「いのち」なのです。私達はこんな仏様の中で生かされています。春はもうすぐです。いのちの芽生えの季節でもあります。そんな「いのち」に感謝して春を楽しみましょう。                 南無阿弥陀仏 
 2011年 2月  遇いがたくして
   いま 遇うことを得たり
親鸞聖人『教行信証』「総序」より
  いよいよ立春、寒かった冬ともやっとお別れの時です。お寺では梅の花が咲き始めました。いかがお過ごしですか。私達はいつも当たり前と思っていることも実は大変難しいこともあります。聖人は「総序」の中で、遇うこと聞くことが難しいインドや中国の聖典や師の教えに遇うことができ聞くことができた。この慶びを嘆ずる。とおっしゃいました。私達も当たり前のことを慶んでいきたいものです。二月十五日はお釈迦様のお亡くなりになられた「涅槃会」です。お釈迦様ありがとうございました。 南無阿弥陀仏
 2011年 1月  「世の中 安穏なれ 仏法 ひろまれ」
  『親鸞聖人御消息』第二五通より
  四月から本山の親鸞聖人七五〇回大遠忌法要が始まります。今年も親鸞聖人の思いを強く感じていきたいと思います。                 南無阿弥陀仏
 2010年12月  遠く宿縁を 慶べ
      2011法語カレンダーより
 今わたしがここにいるのは、父、母、そして多くの先祖のおかげです。私は多くの先祖からいろいろな物を引き継いで,そして遺伝としてこの身に背負って生きています。親鸞聖人は主著「教行信証」の「総序」の中で真実の教えに遇うことは大変難しいが、たまたま教えに遇い、信を得られれば「遠く宿縁を慶べ」とおっしゃいました。宿縁とははるか昔からの因と縁の働きです。私達は今ある私を慶び御仏に感謝しながら、お念仏をとなえましょう。
               南無阿弥陀仏
 2010年10月  そむいているときも
        み手の まんなか
東井義雄 ほのぼのカレンダーより
 孫悟空をご存じですか。中国からお経をとりに三蔵法師とともにインドへ行く猿ですね。この孫悟空、仏様に法師について行くことを命ぜられますが,逃げ出します。でもいくら逃げてもその先には仏様の手が待っていました。
 これは仏様の慈悲の目を表します。いつでもどこでも私のことを見ていてくださる阿弥陀様。あなたを必ず救わずにはいられないとおっしゃっているのです。孫悟空のようにそむいても。 ありがとうございます。 
 2010年 9月  生きているものを
 存分に伸ばしてくれる 光と慈雨
東井義雄 ほのぼのカレンダーより
 今年の夏は大変暑かったですね。お寺の芝生や根の浅い植物たちは、枯れかかったりしています。でも深く根を張った木々はすくすくと大きく育っています。私達も同じです。阿弥陀如来からの必ず救ってあげるという光に照らされてすくすくと育っていくのです。ありがとうございます。              南無阿弥陀仏 
 2010年 7月 多くのいのちと
  みなさまのおかげにより、
   このごちそうを めぐまれました
    深くご恩を喜び
 ありがたく   いただきます。
浄土真宗本願寺派 食前の言葉
  今年初めに改訂された、本願寺派の食前の葉です。私達はすべてのもの(動物を始め、物そして無機質なものにまで)に「いのち」感じています。そして私達はその多くのいのに育てられ、見守られ、生かされています。からいつも多くのいのちに感謝して、暮らしいきたいですね。7月はお盆の月です。このに私を生かさせてくれる多くのいのちに感謝して、手を合わせましょう。 南無阿弥陀仏
 2010年 6月  雨の日には 雨の日の おめぐみ
東井義雄「ほのぼのカレンダー」より
  6月は雨の日が多く、たまに晴れれば「今日はいい天気になって、良かったですね。」といっています。でもそうでしょうか。雨が降らなければ木々は育たず、砂漠になってしまいます。
 両方が調和を取り合って晴れの日があれば、雨の日も。というのが一番良さそうです。雨なら雨でいいこともいっぱいあります。広告で長靴を履いていけば半額、なんていうのも見つけました。天地の恵みに感謝し、御仏の慈悲の恵みに感謝し日々過ごしていきたいですね。
合 掌
 2010年 5月  五月のお空は日本晴れ
   ののさま にこにこ うれしそう
   しんらんさまの誕生日
   みんなでお祝いいたしましょう
「しんらんさまの たんじょうび」
  5月21日は親鸞聖人のお誕生日です。聖人は私達に阿弥陀如来が必ず救ってくださることを示してくださいました。それからもう800年もたっています。手を合わせお念仏を唱えつつ、感謝の気持ちをもちましょう。21日は築地本願寺で宗祖降誕会法要があります。
                南無阿弥陀仏
 2010年 4月      念ずれば 花ひらく
苦しいとき 母がいつも口にしていた
このことばを  私もいつの頃からか
  となえるようになった
   そうしてそのたび
    わたしの花がふしぎと
      ひとつひとつ
  ひらいていった    坂村真民 
 今年もまた桜の花が咲きました。そして散っていきます。わたしの花はいつ咲くのだろう。「念ずれば 花ひらく」坂村真民さんの詩です。花ひらくとはどんなことなのでしょう。成功すること、希望が叶うこと、いろいろな意味があります。私は桜の花がパット開くとき、私たちが感ずるうきうきした、解放された気持ちではないのかと思います。お念仏を唱えたとき阿弥陀様に見守られている私に気づき、安心する。この気持ちなのでしょう。         合掌 
  2010年 3月  信は うたがいなき こころなり
     法語カレンダーより
  お彼岸が近づいてきました。この季節は昼と夜の時間が同じになり、一年の内でも過ごしやすい頃となります。そんな時に自分自身を見つめていきましょう。 蓮如上人は御文章で「聖人一流のご歓化のおもむきは、信心をもって本とせられ候」と述べられ、阿弥陀如来を頼っていけば、不思議な力として、仏様の方から私たちをお浄土の世界に連れて行ってくださると説かれました。煩悩を取り払うことができずこの世を生きている私たちでも、阿弥陀如来によって極楽浄土へ往生させていただけるのです。そんな如来を信じて生きることが大切です。        南無阿弥陀仏
  2010年 2月  見えないところで つながりあって 
生きているのは 竹だけではない
                東井義雄
  立春も過ぎ、日に日に暖かい日が増えてきているようです。いかがお過ごしですか。そろそろ竹の子や土筆がにょきっと土から顔を出す季節です。これらは土の中でつながりあっているそうです。そして私たちも見えないところでつながりあっています。これをお釈迦様は「ご縁」と呼びました。「縁」と「縁」がつながって私たちは生活しているのです。だからみんな手を携えて、助け合いながらいきましょう。二月十五日はお釈迦様のお亡くなりになられた「涅槃会」です。お釈迦様ありがとうございました。 南無阿弥陀仏
 2010年 1月     しっている      立野 勇
ののさまは
  口では何にも言わないが
    ぼくのしたこと しっている
       しっている
阿弥陀如来はいつでもどこでも、私たちと一緒です。
                 南無阿弥陀仏 
 2009年12月  選択本願は 浄土真宗なり
       2010法語カレンダーより
  歳末、お忙しい中。皆さんお元気ですか。
カレンダーの表紙というものはちょっと寂しいですね。新年まで人目に触れず、新年になれば、めくられて捨てられてしまいます。今年の法語カレンダーの表紙の言葉です。「選択本願(せんじゃく ほんがん)」とは阿弥陀如来が選択された本当の願い「第十八願」。ですから「阿弥陀如来の第十八願が、浄土の真実の教えです。」ということです。私たちは必ず阿弥陀如来の極楽浄土へ往生させていただけるのです。    南無阿弥陀仏
 2009年10月  もたいなや からだにこまる
  里の秋      小林一茶
  「もったいない」という言葉。よく一茶も使っていたようです。秋の恵みにそしてこんな身の私でも必ず救って下さる阿弥陀如来に、報恩感謝の気持ちを込めて、「もたいない」と言っているのでしょう。私たちも同じです。秋の恵みに、如来のお慈悲に感謝。 南無阿弥陀仏
 2009年 9月  尊いものを仰ぐ 美しいものに感動
東井義雄 ほのぼのカレンダーより
  皆さん感動することを忘れていませんか。小さい頃何を見ても驚き、興味を持ち、感動していた自分を思い出して下さい。そしていつもそばにいてくれた人のことを。多くの方は亡くなっているかも知れませんが、一人阿弥陀如来は今でも見ていてくれます。 南無阿弥陀仏
 2009年 8月    わたしと小鳥とすずと
わたしが両手を広げても
   お空はちっともとべないが
とべる小鳥は私のように
     地面を早く走れない
私が身体をゆすっても
     きれいな音は出ないけど
あの鳴るすずは私のように
     たくさんのうたはしらないよ
すずと小鳥とそれから私
     みんなちがって みんないい
             金子みすゞ
  金子みすゞさんの詩です。私たちはそれぞれみんな違います。それをお互い認め合って、共に生きていくことができる社会。それが私達の求める社会です。 南無阿弥陀仏
 2009年 6月  おなじ太陽の下の旅なれど
曇る日もあり 晴れる日もあり
      暁烏 敏
  私達は良く今日は暦の良い日、悪い日などと言います。しかしそれって・・・。仏教では日の吉凶は問いません。「毎日が吉日」という人もいます。同じように天気の良い日もあれば悪い日もあります。私達は日の吉凶や天候に左右されず、その日を自分なりに精一杯生きていくこと。阿弥陀如来の慈悲の心を受け止めて、必ず仏にならせていただく身の幸せを喜び、報恩感謝の気持ちを持って人生の旅を続けていきたい者です。      南無阿弥陀仏
 2009年 5月  なむあみだ 仏の方より 鳴く蚊哉
       小林一茶
  緑の季節になってきました。いろいろな虫たちも目覚め活動を始めました。「仏の方より」とは、蓮如上人の御文章「聖人一流の章}の中にある「仏の方より往生は治定せしめたもう」というところからきています。かの鳴き声「ぶーん」が阿弥陀様の声に聞こえてくるというものです。阿弥陀様は必ず私達をお浄土へ連れて行って下さいます。だから報恩感謝のお呼び声南無阿弥陀仏を称えていきましょう。
 今年は善永寺が萩中へ引っ越してから八十年に当たります。それを記念して、永代経法要に合わせ法要を行います。               南無阿弥陀仏
 2009年 4月  たけのこも 名乗るか 唯我独尊と      小林一茶   小林一茶は江戸時代の有名な俳人ですが、門徒としてたくさんの俳句を作っています。この句は一茶が地面から顔を出した「たけのこ」をお釈迦様の誕生仏に見立てて歌っているものです。4月8日は花まつりです。お釈迦様の誕生をお祝いする日です。お釈迦様は生まれてすぐ七歩進み、天と地を指さし「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我当安之」といわれたそうです。お釈迦様は高らかに世界のいのちを救うことを宣言されました。たけのこよ、おまえもか?そして自分は?桜を見ながら、私たちも自分たちのいのちを考えてみましょう。 合掌
 2009年 3月  子供は遊びの名人 無心にあそぶ   子どもは遊びの名人です。道ばたに落ちている石や、大人の気づかないものまで、みんな遊びの道具にしてしまいます。楽しいもの、興味のあるものを見つけたとき、子ども達の目は輝いています。そんな子ども達の気持ちを、私達は忘れていないでしょうか。ある布教使さんはお話をしているときの、聞いている方々の目は子どもと同じといわれました。子どもの時と同じように「輝いた目」を忘れないでいたいですね。              南無阿弥陀仏
 2009年 2月  釈迦弥陀は 慈悲の父母
      親鸞聖人「高僧和讃」より
  立春も過ぎ、日に日に暖かい日が増えてきているようです。いかがお過ごしですか。2月15日はお釈迦様が亡くなられた涅槃会です。親鸞聖人はご和讃のなかで「釈迦弥陀は 慈悲の父母」といわれ、その脇に「シャカハチチナリ ミダハハハナリト タトヘタマヘリ」と記されました。そしてこのお二人が無上の信心を私達に発起させてくれると説かれています。お釈迦様は私達に阿弥陀如来の慈悲の心を伝えられた父のごとき方。この父、母に感謝を込めて   南無阿弥陀仏
 2009年 1月   「仏のこども」
  われらは 仏のこどもなり
  嬉しきときも 悲しきときも
  みおや袖に すがりなん
  私たち自身も「仏のこども」です。煩悩を持ち、わがままなわたしですが、阿弥陀如来の本願に感謝し、いつも報恩の思いをもって手を合わせ一年を過ごしていきたいものですね。
 2008年12月  年もはや 穴かしこなり 如来様
               小林一茶
  歳末、お忙しい中。皆さんお元気ですか。
小林一茶六五歳の頃の作品です。「穴かしこ」とは手紙の文末に書く「かしこ」の丁寧な形です。意味は大変恐れ多いということだそうです。ただ、浄土真宗の世界では必ず法要や勤行の最後に蓮如上人の書かれた、「御文章」を拝読します。その最後は「あなかしこ あなかしこ」つまり一番最後という意味で一茶は使われました。今年ももう終わり、そして私の人生も、もう最後、あとは阿弥陀如来の御本願におまかせするしかありません。と一茶は思われたのでしょう。  南無阿弥陀仏
 2008年10月  善人なおもて 往生をとぐ
      いわんや 悪人をや
 歎異抄「法語カレンダー」より
  善人さえ往生できるのだから、悪人は言うに及ばす。歎異抄の有名な一節です。普通は反対に思えるのだが、そうではない。親鸞聖人は、こんな罪深い私たちこそ、阿弥陀如来は真っ先にお救い下さるのだとおっしゃっています。私たちは自分は善人だと思っていても、煩悩からぬけだせず、迷いの世界にいる悪人なのです。そんな私たちを阿弥陀如来は哀れんで、必ず極楽浄土に連れて行こうとされています。だから報恩感謝。     南無阿弥陀仏
 2008年9月  食欲の秋
 「いただきます」「ごちそうさま」
と手を合わす  
 実りの秋を迎えました。食事の時「いのち」のことを考えてみましょう。多くのいのちを食べていかなければならない私。ありがとう。
食前の言葉
「みほとけと皆様のおかげによりこのご馳走を恵まれました。
 深くご恩を喜びありがたくいただきます。」
食後の言葉
「尊いお恵みにより美味しく頂きました。
  おかげでご馳走様でした。」                      南無阿弥陀仏 
 2008年7月  朝やけ小やけだ
 大漁だ 大ばいわしの 大漁だ
 はまは祭りの ようだけど
  海の中では 何万の
 いわしのとむらい するだろう
             金子みすゞ
  「大漁」という金子みすゞさんの詩です。私たちは自然と共に生きていますが、気がつくと一つの見方しかしていません。金子さんはいわしの立場にも立って考えいてます。このお盆の時期「いのち」について,考えてみましょう。               南無阿弥陀仏
 2008年6月  聴聞は他人事を 自分のことだと
教えてくれる
  聴聞とはひとの話を聞くこと。そしてほとけさまのお話を聞くことです。あるとき高校生が私に質問にきました。「仏教には聖書のようなものがあるのでしょうか。」お経がお釈迦様の話ですよと答えました。意味がわからず聞き流しているお経ですが、実はお釈迦様が私たちに話しかけて下さっているのです。    南無阿弥陀仏
 2008年5月  雑草は 未発見の 薬草
豊島学由
  緑の季節になってきました。道を歩いていると塀の裂け目や道路の境目から、雑草たちが元気に顔をだしています。私たちは植物の名前を知らないので、よく「名もない花」とか雑草と呼んでしまいます。でも本当はそれぞれ固有の名前を持っているのです。それを調べていくと、食べられたり、薬になったり、新しい発見があります。これは人間にも当てはまりますね。ふつうの人に見えても,その中にきらっと光る物が必ずあるはずです。そんなものを探してみてはいかがでしょうか。仏様は私たちを平等に救ってくださいます。どんな貧しい人でも,金持ちでも、年寄りでも少年でも、男も女も。「雑草」でも蘭でも。   南無阿弥陀仏
 2008年4月  花ちるな 弥陀が御苦労遊ばさる
      小林一茶
  小林一茶は江戸時代の有名な俳人ですが、門徒としてたくさんの俳句を作っています。この句は花を人のいのちと重ね合わせ、この世でいのち尽きたとき私達は阿弥陀さまによって、極楽浄土に連れて行ってもらえます。だからもうちょっと長生きして阿弥陀如来にご苦労かけないようにしてもらいたいというものです。桜を見ながら、私たちも自分たちのいのちを考えてみましょう。                合掌
 2008年3月  なむあみだ おらがほまちの
    菜がさいた  小林一茶
  もうすぐ春ですね。「ほまち」とは小遣い稼ぎの畑の意味です。すなわち春になって小遣いになる畑に菜の花が咲いた。大きな恵みを下さる仏さまありがとうございました。と言う意味です。一茶は自然に感謝し、阿弥陀如来に感謝する日々を過ごしていました。感謝の心を持って拝んでいくことは、私自身のちいささ、愚かさを自覚することが出来るのです。こんな私でもこんな大きな恵みを与えて下さる阿弥陀如来に感謝して過ごしましょう。 南無阿弥陀仏
 2008年2月  春立つや 愚の上に また愚に返る
              小林一茶
 立春も過ぎ、日に日に暖かい日が増えてきているようです。いかがお過ごしですか。小林一茶は年があらたまり、そこでまた愚に返りと自らを表現しています。私達なかなか自分自身を「愚」と表せないものです。一茶は年をとり、世の中が見えてくるとだんだんと自分の愚かさも見えてくると言っているのでしょう。親鸞聖人も自らを「愚禿釋親鸞」と名乗られたと言われています。私達もこれから自らを見つめていきたいものですね。       南無阿弥陀仏
 2008年1月  「仏のこども」
われらは 仏のこどもなり
幼きときも 老いたるときも
みおやにかわらず つかえなん
  私たち自身はいつまでたっても「仏のこども」です。阿弥陀如来の本願に感謝し、いつも報恩の思いをもって手を合わせ一年を過ごしていきたいものですね。         合 掌
 2007年12月  貧楽ぞ 年が暮れよと 暮れまいと
               小林一茶
  歳末、お忙しい中。皆さんお元気ですか。
 貧乏の気楽さというものは、年の暮れになってもあわてないという句ですね。心に余裕を感じます。仏教でいう「不動心」ということです。どういうことに処しても心を動かさないと言うこと。それはすなわち阿弥陀如来に生かされている私だから、何があっても慌てず恐れず、この道を進んでいこうとするものです。こんな気持ちで年の暮れを過ごしましょう 南無阿弥陀仏
 2007年10月  仏は教えを説いて 人々を救い
   真実の利益を 恵まれる
仏説無量寿経「法語カレンダー」より
  今ミャンマーでは僧侶達が政府に対して、行動を起こしています。報道でこれを見たとき、「どうしてお坊さんが?」と思われる方が多かったのではないでしょうか。
 仏教の究極の目的は私が、そして社会が「幸せ」になることです。そのためにお釈迦様は教えを説かれ、現在に引き継がれています。「真実の利益」とは、私達のような煩悩まみれの者でも、阿弥陀如来が苦しみの海から、すくい取って、幸せの世界である極楽浄土に連れて行ってくれることです。この私が阿弥陀如来に救われるのです。       南無阿弥陀仏
 2007年9月  実るほど 頭を下げる 稲穂かな   実りの秋を迎えました。稲穂はどんどん中身が重くなり頭を下げてきました。ところが私達は年をとればとるほど、頭が起きあがって来ます。親鸞聖人は自ら愚禿と名乗られ、自分を愚かな人間だと言われました。自分自身を知り、自らの愚かさに気づくこと。阿弥陀如来はそんな愚かな人を浄土の世界へ連れて行ってくださるのです。稲穂のように、自らを知り、頭を下げていきたいものです。   南無阿弥陀仏
 2007年7月  やれ打な 蝿が手をすり 足をする
蝿一つ 打ては なむあみだ仏哉
              小林一茶
  蝿について一茶の俳句を二つ取り上げてみました。邪魔な蝿を叩こうとすると、蝿が手を擦っています。その姿は合掌しているみたいですね。またもう一つは邪魔な蝿でもいのちを持っている。そんないのちを殺した事への後悔として私が手を合わせる。一茶は蝿でもいのちを感じ、大切にしていこうと思っているのでしょう。先日お坊さんばかりの会の懇親会で蝿が飛んできました。皆さんそれを追い払おうと手で払います。でも叩こうとしている方はいませんでした。さすが、と思いました。いのちを大切に。             南無阿弥陀仏
 2007年6月  仏の光明は遍く 世界を照らし
 念仏の人を救い 捨てることがない
        仏説観無量寿経より
  蓮如上人は御文章「当流安心章」の中で「一筋にこの阿弥陀ほとけの御袖にすがりまいらする思い」で頼っていけば「阿弥陀如来は深く喜びましまして、その御身より八万四千のおおきなる光明を放ってその光明の中にその人を摂め入れておきたもうべし」とおっしゃっています。いつどこいてもこの光明に照らされている私達。ありがとうございます。 南無阿弥陀仏
 2007年5月  生きているとばかり思っている
        私が生かされている
東井義雄「ほのぼのカレンダー」より
  人間は元来わがままな存在です。生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の気ままに泣いています。そして母子、家族とふれあいながら、3歳で幼稚園に行きます。園では家族しか知らなかった子ども達が、仲間を知り、先生を知り、そして社会を学んでいきます。すなわち社会性を身につけていくのです。しかし大人になっても私達はややもすると、自分一人で生きている。そんな気持ちになることがあります。でもそうではありません。家族に、周りの人たちに、今までお世話になった人たちに、そして阿弥陀如来に生かされているのです。如来はこんな愚かな私を極楽浄土へ必ず連れて行ってくれると誓われています。感謝  南無阿弥陀仏
 2007年4月  生きてあふ けふも桜の御陰哉          小林一茶   小林一茶は江戸時代の有名な俳人ですが、門徒としてたくさんの俳句を作っています。この句は出会いの大切さを桜にたとえています。「一期一会」出会った喜びご縁の大切さを桜にたとえているのでしょう。私達も桜を見ながら、今日生きて会う喜びを感じていきましょう               合掌
 2007年3月  活てあふ けふも桜の おかげかな
        小林一茶
  もうすぐ桜が咲きそうです。人の出会いを「一期一会」といいます。熱心な真宗門徒の一茶は桜の花にそれを感じ、お陰かなと読んだのでした。一茶は自分一人で生きているのではなく、色々な人、植物にそして阿弥陀様にたよって生きている自分に気づいていたのでしょう。蓮如上人もご文章の中で「阿弥陀如来の御袖にすがりまいらする思いをなして」とおっしゃっています。私は一人で生きられない、みんなのお陰で生かされているのです。南無阿弥陀仏
 2007年2月      釈尊最後の教え
 教えのかなめは心を修めることにある。欲をおさえ、おのれに克つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、言葉をまことあるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。「仏教聖典」
  2月15日はお釈迦様(釈尊)がお亡くなりになった日です。涅槃会と呼ばれています。釈尊は煩悩の燃え上がった炎を消し去ることによって、苦しみから離れて悟りへの道が開かれると教えて下さいました。
 しかし消すことの出来ないような愚かな私達どうしたらよいのでしょうか。そんな私達でさえ、阿弥陀如来は悟りの世界へ連れて行って下さるのです。親鸞聖人は自らを愚禿と名乗られました。そして私達も。
               南無阿弥陀仏
 2007年1月  「仏のこども」
 われらは 仏のこどもなり
 嬉しきときも 悲しきときも
   みおやの袖に すがりなん
  私たち自身も「仏のこども」です。阿弥陀如来の御袖にひしとすがりまいらする思いで、一年を過ごしていきたいものですね。         合 掌